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B.Jは1902年に4人の生徒の一人としてパーマースクールに入りました。良くも悪くも彼の存在を抜きにして、現在のカイロプラクティックを語ることはできません。卒業後、アイオワ州のデヴァンポートで、カイロプラクティックを普及させるために活動しました。

アメリカ医師会からの攻撃を受け、無免許診療で父ともども逮捕されました。出所後、パーマーは息子であるB.Jに学校の権利を売り、彼の残りの人生を過ごすことになるカリフォルニアに移りました。

B.Jはラジオ産業をはじめとする数々の事業、またリサーチクリニックでの研究や精神病院などの開設にも手を広げていきました。彼は多くの本を出版し、数多くの講演を行い、またカイロプラクティックの治療テーブルの販売事業も起こしました。こうしてカイロプラクティックを広く全米に知らしめることとなります。

B.Jは1930~35年にH I O(ホールインワン)学説を確立し、提唱しました。このことが契機になり、カイロプラクティックは分裂の歴史へと進むことになります。多くのカイロプラクターがB.Jの元を離れ、全米各地で独自にカイロプラクティックを普及させるようになりました。これ以降のカイロプラクティックのテクニックは、大学の数、あるいは伝説的な治療家の数だけ存在するようになりました。

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