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カイロプラクティックの記事

カイロプラクティックを正しく受けて頂くには来院周期が重要になります。

骨(椎骨・骨盤)を矯正しても、すぐにもとに戻ってしまいます。
それは、今までのサブラクセーション(ずれ)によって周りの筋肉・靭帯が痛んでしまっているからです。

“矯正しても戻る”ですので、その戻る前に矯正、その戻る前に矯正をする施す事によって、初めて骨は安定していくのです。

開け過ぎては、せっかくの矯正ももとに戻ってしまうからもったいないです。

次回の来院目安をどのように設定するか、それはこんな感じです。

患者さんに「次回の来院を1週間後くらいに来て下さい。」と設定したとしましょう。
それは患者さんの症状、矯正の手ごたえ、歪みの程度から判断します。

その1週間後の来院時、同じように脊柱を検査をします。
前にやった矯正箇所がどのようになっているのか?
正常な可動が維持できているのか?もしくは戻ってしまっているのか?を診て行きます。
正常な可動が維持できていればOK。
つまり神経の流れは正常に近づいている、サブラクセーションが改善に向かっていると判断します。

①もし正常な可動が維持出来ていたならば、
a:もうちょっとこの周期で続けて行きましょう。  または
b:もう少し期間を開けて2週間後にしましょう。
か、を判断する訳です。

②しかし、可動がなくサブラクセーションが戻っていたならば、矯正の周期を見直す必要があります。
a:期間を縮めて5日くらいで来て下さい。  または
b:もう一度この1週間後に来て下さい。
か、を判断する訳です。

このように、次回の来院周期の目安を設定している訳です。
矯正が長持ちしていれば、どんどん期間は広げていけます。
最初3日おきが1週間おき、そして2週間、3週間・・・と広げていけるのです。
最終的には1ヶ月か1ヶ月半くらい毎にメンテナンスに来てもらう事で、サブラクセーションの再発を防ぎ、また新しいサブラクセーションを起こさないという予防にもつながります。

マッサージでしたら痛い時に疲れた時に行けばいいですが、
カイロプラクティックには正しい周期が必要なのはこの理由からです。


健康は日頃のケアから!
花みずきカイロプラクティック院

研修会

7月2日(土)の夕方~7月3日(日)東京へ研修へ行って来ました。
モチベーションが上がりまくる、いい研修会でした。
同じ志を持ったいい仲間とも出会い楽しく過ごしました。

塩川満章DCの双子の息子さん雅士DC、貴士DCが講義して下さったのですが、
印象に残る話がありました。

高校の時、自宅を離れて寮生活をした時(たぶんアメリカでの話)、
”世間一般の常識”というものにカルチャーショックを受けたようです。

周りの人たちが風邪で熱が出た時、みんなが病院に行って薬をもらい安静にしている。

ごく普通の光景に思えるのですが、雅士先生にとっては違っていたようです。

雅士先生は子供の頃から熱が出たりしても、超一流のカイロプラクターである
父、満章DCに矯正してもらい風邪を治していたようです。

雅士先生の常識は体調が悪くなったら病院で薬ではなく、
体調が悪くなったらカイロプラクティックだったのです。


風邪=カイロプラクティック???ってお思いでしょう。

実は風邪もOKなんです。

なぜなら、カイロプラクティックの治療により自然治癒力がUP↑するからです。

カイロプラクティックで自然治癒力を高める環境にしてあげて、
後は菌(ウイルス)と戦わせるのです。

特に頸椎1番(アトラス)が感覚受容器が沢山集まっているので
アトラスのアジャストが効果的です。


超一流のカイロプラクターが身内にいれば、病院はいらないでしょう!
流石です・・・。

うちの子供もそうやって育ててあげたいと思っています。


花みずき整体院

クレイ達一行は、もし村長が良くならなかったならば、この村から出ることが出来ないかもしれないと不安でいっぱいだったので、良くなったことで皆安心した。

1年後に同じ村に訪れると案内人は、実は村長はボコタの病院で癌と診断されていたが、クレイの矯正後に体調が良くなって元気になったと話した。村長はクレイが来たことを知り、もう一度矯正を受けたいと言っていると、伝令が来たのでクレイは村長を治療することになった。村長は喜んで家族と一緒に写真を撮ることを許してくれた。当時アマゾンの原住民と写真を撮ることなど、通常では考えられないことだった。

 クレイほど人間味にあふれ、アイデアに富んだカイロプラクターに著者は出会ったことがない。

B. J. 哲学を最後まで守り通した、偉大なる哲学を持ったカイロプラクターである。

塩川満章 D.C.

著作権 ルネッサンスジャパン

このようにカイロプラクティックの発展に尽くしたクレイの唯一の楽しみは、釣りであった。

ある日、Dr. マートン・ガンステッドに南米のアマゾンに釣りに行こうと誘われたので、行くことになった。南米まで飛行機で行き、そこから小型飛行機に乗り換えて、やっとアマゾンの釣り場にたどり着いた。

釣り場の近くにある原住民の村を見学に行こうということになり、クレイとマートン、それに2人の医師と通訳や道案内の数人で原住民の村へ行った。

 村ではウィッチドクターが一生懸命にお祈りのようなことをしていた。

案内人は、この村の村長が病気でひどい頭痛と腹痛に悩まされている、誰か治せる者はいないかと言ってきたので、医師でなくカイロプラクターのクレイにその役目が回ってきた。

クレイは村長の頸を触診すると、頸椎2番が右の方に出っ張っていたので、その部位を古いやり方のロータリーブレイクで矯正した。大きな音がしてしばらくすると村長は頭痛と腹痛がとれたと言って大変喜んでくれた。

著作権 ルネッサンスジャパン

B. J. パーマーはクレイにこう言った。

「時にはアトラス、アキシャス以外の所を矯正しなければいけない時があるかもしれない。」

 このB. J. パーマーの一言で、クレイはトムソン・ターミナルポイントテーブルを作ることになる。1958年頃のことであった。

やはりB. J. パーマーは学園祭に間に合わして欲しいと言ったが、今回は学園祭まで時間があったので、デブンポートの西にある工場で様々なテストをしながら、何ヶ月かけて作り上げることが出来た。

 学園祭でクレイは、B. J. パーマーの治療方針が変わったと多くのカイロプラクターから言われるのではないかと心配したが、B. J. パーマーは基本の上部頸椎メィジャーは全く変えなかった。

この時発売されたトムソン・ターミナルポイントテーブルの1号機は、現在サラソタのB. J. 博物館に保存されている。

 B. J. パーマーは偉大なカイロプラクターであった。彼は常にカイロプラクティックの科学を求めて、より正確なデーターをもとにしてカイロプラクティックを発展させてきた。

B. J. パーマーはクレイの機械工学の能力を高く評価していた。

 ある都市の学園祭が近づくと、B. J. パーマーはクレイを呼び、彼に脊柱をNCM(ニューロカロメーター)で仙骨から後頭骨まで測定するときの速度が人によって違うので、正確な情報が得られないので一定の速度で測定できるようにして欲しいと言った。

クレイは早速、デブンポートの西にある工場で研究した。そしてモーターを取り付けることによって一定の速度で、誰にでも同じように測定できる器具を発明した。

 このような発明のパテントを全て、クレイはパーマースクールに渡した。そのためパーマースクールは常に資金に困ることはなかった。B. J. パーマーのクレイに対する信頼は絶大であった。

著作権 ルネッサンスジャパン

クレイはB. J. パーマーを何回となく矯正したが、いつもB. J. パーマーは「クレイ、ちょっとここが違うんじゃないか、クレイここのところが正しくない・・etc」など難癖を付けて、B. J. パーマーが一番ということを強調した。

後にクレイは「B. J. は私が、No. 2であることを示したかったのかもしれない。B. J. がNo1. であり私はその次のNo. 2であることを。」と話していた。

 B. J. パーマーはクレイが新しく作ったヘッドピースに横になりクレイにアジャストするように言った。

クレイはB. J. を横向きに寝かせ素早くターグルリコイルを行った。するとB. J. は「クレイ、これは私が受けたアジャストの中で最高の物だ。私はこのようにアジャストによって最高の気分になったことは今までなかった。このテーブルが欲しい、このテーブルを学園祭の前に作ってくれ。」と言った。

 B. J. は欲しい物があるとすぐに欲しいという癖があった。学園祭まで後一週間しかなかったが、クレイは作り上げて、学園祭に全米から集まったカイロプラクターに賞賛された。

 1940年代のパーマースクールは資金不足に悩まされていたので、クレイはこのテーブルのパテントをパーマースクールへ贈与した。このことによりパーマースクールは資金不足から開放された。

B. J. パーマーは、クレイの作ったヘッドピースを全身のアジャストに使えるように応用してみたらどうだ、とクレイに言ったので彼は驚いてしまった。なぜならB. J. パーマーはアトラス、アキシャス以外のサブラクセィションを信じていなかったからである。

著作権 ルネッサンスジャパン

クレイがパーマースクールに入学する少し前からB. J. パーマーはエレクトロエンセファロメンティンポグラフの完成に力を入れていた。

 クレイがレントゲン学科で、様々なレントゲン写真を見た結果、最初の撮影と治療後の撮影の正確さに疑問を抱き、彼は撮影時に頭を固定する器具「ヘッドクランプ」を発明して特許を取った。さらに1952年には「ヘッドピース」をデザインした。1949年にはクレイは18ヶ月コースを終了したが、その後4年間パーマースクールに残り、P.H.Cの称号を取得したが、後にC.C.Eがこの称号を返却するようにクレイやD. D. パーマー、Dr. ニップ・クィグリー、Dr. ゲイレン・プライスに言った。クレイ以外のドクター達はそれに従ったが、クレイはC.C.Eの人たちを「ゴー ツゥ ヘル」と言って追い返したので、クレイはその後もP.H.Cの称号を持っている。

 クレイがパーマースクールで学んでいたときの先生で、Dr ライル・シャーマン(後に彼に敬意を表してシャーマン大学が設立された)がとても印象的だった。

 クレイは卒業する6ヶ月前からパーマースクールの教壇に立ち、テクニックと衛生学を教えながら、学生クリニック(当時は入学して6ヶ月後にはクリニックで患者を診る事が出来た)で得た180名の患者がそのまま彼のもとに来たので、開業と同時に安定した収入を得ることが出来た。

 卒業間近になるとパーマースクールで教えられたアトラス、アキシャスの矯正だけでなく色々なアイデアが浮かんできた。しかし、この頃のパーマースクールで骨盤や仙骨を触ったら退学になってしまった。

 クレイは常に体のバイオメカニズムを考えていた。ある日、Dr. チャースが赤ん坊をアジャストするのを見てひらめきが沸いた。それがもとで1952年にトムソン・パーマー・ヘッドピースを発明し特許を取得する事となった。

 次にクレイが開発したのはヘッドピースの部分が磁気によってヘッドピースが落ちるときに加速度が付くメカニックの物で、これをB. J. パーマーはとても気に入ってくれた。

この頃パーマースクールの先生達は皆、カイロプラクティックの哲学を話した。化学、骨学、解剖学などの先生も含む全ての先生が、時間を見てカイロプラクティック哲学を話した。

大学の食堂でも、学生達は哲学の話で持ちきりで、現在のパーマー大学とは違った雰囲気であった。誰もがカイロプラクティック哲学に興奮し、論議に夢中になった。

 B. J. パーマーは週に1回、講堂に全学生を集めた。夜の8時10分前に来て、8時になると「グットイブニング」と言って講義を始めた。1分でも遅れた学生には「ゴー ツウー ヘル(地獄へ行け)」と言ってドアに鍵を閉めた。講義中は誰も入れないし、トイレのために外に出ることも出来なくした。

B. J. はあらかじめ用意した原稿を読み、それが終わると哲学を話した。これが学生にとって最大の楽しみであった。

 有名な話だが、B. J. パーマーは毎日夜9時になると休み、朝3時には必ず起きて思いついたことをタイプすることを毎日行っていた。そのようにして出来たカイロプラクティック哲学を、夜8時に学生達を集め、話をしたのである。

学生達はB. J. パーマーの話に興奮し、パーマースクールは哲学によって大きな団結を得た。

 後にB. J. パーマーはこのような講義に疲れて、行わなくなったが、B. J. クリニックの中にあるB. J. パーマーがコレクションしたナイフの飾ってある部屋に、クレイは何人かの学生と共に行きB. J. パーマーから哲学の話を聞くのが楽しみであった。

老カイロプラクターがクレイの背骨を矯正すると、大きな音がして骨が動くのがクレイ自身も解った。

その夜、クレイは久しぶりに熟睡することが出来た。

老カイロプラクターは16日間、毎日クレイを矯正して彼を糖尿病から解放した。この事でクレイはカイロプラクティックによりいっそう興味を覚えた。

 デモインでのカイロプラクティックの治療が終了して元気になったクレイは、キースバーグに帰り会社の顧問医のもとを訪れた。医師は、「今までどこへ行っていたんだ。」と聞くので、クレイは「私は専門家の所へ言っていたんです。名前はDr. ジェイムス・デルクです。」と答えた。医師はAMA(アメリカ医師会名簿)を調べ始めた。しかし名前がないのでクレイに尋ねると。「彼はカイロプラクターです。」とクレイは答えた。

医師は、「時には自然が威力を発揮するときもあるかも知れない。」と言った。

 クレイがカイロプラクティックに興味を覚えたもう一つの理由は、かつてクレイが働いていたシカゴの薬局で薬剤師をしていたエドゴルソンが、いつもカイロプラクティックの話をしていたからだ。なぜならば彼の弟がパーマースクール オブ カイロプラクティックを卒業して成功していたからだ。彼の弟はいつも兄であるエドに「薬なんかいらないよ、背骨を矯正したら病気は治るんだよ。」といつも言っていた。クレイはエドと一緒に、彼の弟のクリニックの見学もした。

 クレイは、「私が最初に糖尿病を患ったときに、Dr. デルクがカイロプラクティックの哲学を話してくれていたなら、私は10年早くパーマースクール オブ カイロプラクティックに入学していただろう。この事が唯一悔やまれることであった。」と後に話している。

 クレイは1945年の秋の学期に弟と2人でパーマースクールに入学した。

卒業後、弟もカイロプラクターになったが、2回も開業に失敗して音楽の道へ進んだ。

ラッキーだったことは、パーマースクールに入学してDr. ハーブ・ヘンダーに出会ったことだった。

彼がクレイをB. J. パーマーに紹介してくれた。また彼は彼のルームメイトであったDr. ニック・クィグリーにも紹介してくれた。

 クレイは彼ら2人を田舎のキースバーグへ連れて行き、クレイの所有するボートに乗って3人で釣りに行った。3人とも釣りが好きだったので金曜日になるとキースバーグへ行き、釣りをするのが週末の楽しみになった。

クレイとカイロプラクティックの出会いは、父親が胆石の激痛に見まわれたときであったが、クレイ自身がカイロプラクティックを経験したのは丁度この頃であった。

クレイは急性の糖尿病を患い、勤めていた会社の嘱託医から、1週間から10日ぐらいしか持たないと言われてペギーや他の家族と話し合った結果、どうせ医学で治らないのなら、昔知り合ったカイロプラクターに診てもらおうということになった。

 クレイの父親を治したカイロプラクターはデモインに移り住んでいたので、クレイは汽車で彼のもとへ向かった。

クレイが10代の頃に出会った、そのカイロプラクターはすでに80才になっていた。

老カイロプラクターは、クレイに服を脱ぐよう指示をすると彼の背中を不思議な器具で測定するので「私は糖尿病で、背中は悪くないのです。」と言うと、老カイロプラクターはまず背中を調べさせてくれと言い、続けてレントゲン撮影を行った。

レントゲン写真を見ながら老カイロプラクターは「クレイ、この骨とこの骨がずれているのが解るか?」と言うのでクレイは「それは解りますが、糖尿病とは全く関係ないんではないですか。」と答えた。老カイロプラクターは「今に解るよ。」と言いアジャストルームに連れて行った。

つづく

花みずき整体院 藤枝市・焼津市・島田市

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