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カイロプラクティックの記事

ペギーもクレイと同じボタン会社で働いていたが彼女の収入は1週間で7ドル、クレイの収入が週に8~10ドルであった。世界大恐慌のため銀行も商店も閉めたままで、物を買うことすら出来ないほどひどい時代であった。クレイは少しでも生活を楽にするために農家に住み、ブラックベリーを作って売ることにした。

 クレイはセールスの才能にも長けており、300ドル分のブラックベリーを瞬く間に売ることが出来た。これは農家のオーナーが半年かけても手にすることの出来ない金額であった。

このようにしてクレイは大恐慌を運良く乗り切ることが出来た。もといたボタン会社も経営状態が良くないので、ペギーにデブンポートへ行こうと提案したら、快く彼女も承諾してくれたので二人でデブンポート移り住むことにした。

 デブンポートでは、隣町のイーストモーリンのジョンディアー社に雇って欲しいと願い出たが、なかなか雇ってもらうことが出来なかった。

しかしクレイはあきらめずに毎日ジョンディアー社へ通い、ようやくジョンディアー社の持っているオーケストラ楽団の一員として採用されることになった。

この楽団はクレイに時給30セントを払ってくれたので、週に9ドルの稼ぎになった。

 しばらくするとジョディアーは、クレイにメカニックの知識があることを知り、クレイをエンジニアとして研究部門に配属してくれた。

またクレイは、この部門で働きながらエンジニアの学位を取るために通信教育の学校に入学した。クレイの給料は今までより上がったが、同じ部門で働く油圧クラッチを発明したアールスタットの勧めで、2人でキースバーグに会社を興した。

しかしその会社も2~3年でだめになり、再度イーストモーリンのジョンディアー社の下で働くことになった。

つづく

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やがて、クレイが少年時代を過ごしたキースバーグともお別れするときがやってきた。大学でバイオリンを勉強するためにシカゴに行くことになったからだ。

しかし、人口2500人以上の町に住んだこと無く、いつも川があるところで生活していたクレイは、シカゴのような大都会にはなじめずに2~3回ホームシックにかかり、泣いて過ごしたこともあった。

 キースバーグ時代にアルバイトをしていた薬局の店主が、友人のシカゴで薬局を経営しているフレッド・レイモンドを紹介してくれたので、クレイはそこでアルバイトをすることになった。大学生活と、夕方6時から夜中の12時までのアルバイトを週に7日間こなした。

 シカゴで1~2年勉強すると、1929年の世界大恐慌となり全米で金持ち達がビルの窓から飛び降りたりなどの悲惨な状態を目にする事になった。

 このような状態の中で勉強を続けることが出来なくなったクレイは、退学して故郷のキースバーグに帰ってきた。クレイが21才の時である。

 故郷に帰ったクレイは、以前に父親が勤めていたマッキーボタン社に就職したが、まもなくその会社も倒産してしまった。

その後マッキーボタン社の紹介で、アイオワ州のマスカティンにあるボタンの会社に就職することとなった。ここでクレイは、後に婦人となるペギーと出会うことになる。

 マスカティンで行われたダンスパーティーで、クレイはペギーに一目惚れしてしまう。

その後、友人を介して二人は付き合うこととなり1年後に結婚する。

つづく

これがクレイのカイロプラクティックとの出会いであった。これをきっかけに人間の健康に興味を持ち始め、12才になると近所の医師の手伝いをしたりもした。

14才の頃からはメカニックに興味を持ち始め、町で唯一のモーターボートを修理する工場で毎年夏になるとアルバイトをした。そのためシカゴの音楽大学に入学する頃には、かなりのメカニックの知識がついた。

また夕方にはジャックギンレイ薬局でアルバイトをして、薬の知識も身につけた。

 このようにクレイはシカゴの音楽大学に入学する前に様々な知識を覚えていった。

また、クレイは13才の頃から始めた魚釣りも彼の旺盛な探求心で「魚釣り名人」と言われるようになった。釣った魚は1ポンドが13セントで売れたので結構良い収入になり、小型のボートを所有することも出来た。

 ある日彼は、キースバーグからクリントンまで約100マイルのボートの旅に出発したが、運悪くクリントンでボートが故障してしまった。しかしクレイは町で工具を借りて、ものの見事に故障したボート直してしまった。

つづく

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クレイ・トムソンは1909年7月8日に、ワイオミング州の小さな町ハートビルで生まれた。父は鉄道員であったが、クレイが生まれたから6ヶ月ほどたった頃に鉄道の仕事を辞めて、イリノイ州のキースバーグに移り住み、そこにあるマッキーボタン社で働いていた。

 その後、第一次世界大戦が始まりイリノイ州のイーストモーリンで国の仕事に従事する事になる。このイーストモーリンはカイロプラクティック発祥の地デブンポートの隣町であったため、カイロプラクティックの話が色々とクレイの耳に入るようになった。

 キースバーグで生活していた頃に父親がひどい腹痛に悩まされ、病院で胆石と診断され手術を勧められたがそれを拒否し、他の治療法を探しカイロプラクティックを受けてみることにした。そのころの隣人がカイロプラクターであったが、友人の紹介で現在住んでいるイーストモーリンで開業しているDr. ジェイムス・デルクに診てもらうことにした。

幸運にも3回の矯正で父親は快復した。 

つづく

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